親のコネ入社の仕事辞めたい

  

親のコネで入った会社が合わない!

仕事がイヤだ!

苦痛でしかない!

親が働くのではなく、アナタが働くのです。

一刻も早く親が押し付けた仕事ではなく、あなたがあなたらしく輝ける職場に転職しましょう。

まずは、


⇒あなたが転職できない理由


これを知りましょう。

人生の時間は貴重です。

自分のやりたいことを職業にしましょう。

もしかしたらコネ入社ということで社内いじめに合うこともあるかもしれません。

親の押し付けた価値観に従う必要はありません。

あなたの人生です。

親のコネや親戚のコネで入社したけれど会社を辞めたいということは良くあります。私も実は親のコネで新卒入社した会社を退職しています。
そもそも、親のコネで入社出来る会社というのは子供本人の意思や希望ではなく、親の考え方、要望が強く反映されていたりします。コネがある会社も、もちろん親の知人ですから、親と似たような考え方の人間が会社にはたくさんいるはずです。そんな環境でうまく行かないことは入社する前からわかっていることです。

私の場合はもともとは大学を卒業後、もしくは大学を中退してデザイン系の専門学校に進学することを希望していました。しかしながら親の反対で、自分自身の希望は叶いませんでした。親の立場からすれば私立の大学に4年間も通わせるだけでも大変なのに、これ以上は経済的にも無理ということもあったでしょう。

自分の下に弟や妹がいれば、兄弟の分の進学費用もを親は負担しなければならないのです。

当時、借りていた日本育英会の奨学金の関係もあり、仕方なく私も進学は諦めました。ちなみに当時、私が借りていた奨学金は一種、つまり無利息のものでした。

父親は私に公務員になることを勧めました。どういう事情かは不明ですが、親戚のオジサン、父親の従兄弟のツテで地元の市役所に入れてやるというのです。

結論から言うと私は、この申し出を断りました。性格的に公務員は務まらないような気がしたからです。今思えば、随分ともったいないことをしたように思います。

デザイン学校への進学をあきらめた私の新卒の就職活動時点での、第一希望の職種はマスコミでした。地元の新聞社に入社するためにマスコミセミナー、予備校に行って毎日、筆記試験の練習をこなしていました。

当時、私は関西の私立大学に通っていたのですが、そのマスコミ予備校には関西のいろんな大学の学生が来ていました。同志社大学、龍谷大学、立命館大学、関西学院大学、京都大学、仏教大学、京都産業大学、大阪大学、、、なかなか楽しい仲間たちでした。

私は受けなかったのですが、広告代理店を受ける学生は三題噺の筆記試験の勉強をしていました。ちなみに三題噺とは、まったく関連性のなさそうな単語、3つを組み合わせて小論文を書くというものです。

仮に「レモン、自動車、英語」というお題だったとします。一見、何の関係もなさそうな単語です。

例えば、こうした場合、、、「英語ではレモンは柑橘類の果実という意味の他に欠陥品の意味もあります。このフォードの自動車はレモンだというような単語の使い方をするのです。
何故、レモンが欠陥商品を意味するのでしょうか?この欠陥商品でないという意味のレモンの反対を意味する単語は何になるのでしょう?云々、云々、、」という感じで3つの単語を使い、指定された文字数の文章を書いていくのです。当時は広告代理店を志望する学生には必須の試験だとされていました。私は新聞記者志望だったので、小論文の勉強しかしなかったのですが、発想力と雑学の引き出しの多さを問われる面白い試験だな、と思ったものです。このマスコミ予備校に集う他の学校の学生たちとは、たまに飲み会に行くこともありました。春には京都の円山公園でお花見をしました。

それで、私は予備校で学んだ知識をぶら下げて地元に戻り、私の地元では最大部数をほこる新聞社の入社試験を受けました。この時点で長男である私は地元に帰ることが、ほぼ規定路線になっていました。

一応、場数を踏むという意味で一部上場企業の食品メーカーや繊維会社、財閥系の不動産会社の面接も受けていました。中には最終面接まで漕ぎ着けた会社もあったのですが、最終面接で落とされました。役員面接で顔を、パッと見た瞬間、「この東京から来た役員とは合わないな」、と思ったものです。多分、向こうの役員も同じことを感じたのでしょう。大阪の役員とは割と相性は良かったのですが、東京本社の役員とは相性的にダメだったようです。

もっとも、最終的には地元に帰る予定だったので、それほど落ち込むことはなかったです。
面接でも、この辺のことはさりげなく聞かれました。「あなたは長男なのに、地元に帰らなくて良いのか?」と。返答は何かもっともらしいことを言った記憶があります。

それで地元に帰り、第一志望の新聞社の試験に臨みました。理由は不明ですが、田舎は採用面接が始まる時期が遅かったですね。

一次試験の書類選考(今でいうところのエントリーシート)二次の筆記試験、ここまでは順調に来ました。残るは最終面接です。

自分でいうのも何ですが、筆記試験の結果は良かったように思います。
それで問題の最終選考ですが、役員を前に二人一組での面接でした。
この面接に私は紺のリクルートスーツで臨みました。私とペアになる学生は学ランを着て、来ていました。どう見ても相手のほうが目立ちます。それで自己紹介をするときに、この学ランを着た学生の口から出てきたのは東京六大学のひとつの学生で、応援団団長という言葉でした。私が通っていた大学よりも偏差値的には相当、上の学校です。

イヤな予感がしました。聞くと卒業高校も私の住んでいる地区では一番の進学校です。この高校からは毎年、東大や京大、早稲田、慶応といったブランド大学に多数の合格者を送りこんでいます。この新聞社を受ける前に電力会社を受けたが、落ちたのだと言っていました。彼が言うには電力会社は国立大学でないと難しいとのことでした。

二人一組の面接とは言いますが面接官は私ではなく、この高偏差値大学の学生にばかり質問します。私に対する質問は、ほとんどありませんでした。筆記試験には自信があったのですが面接では惨敗でした。二人一組の面接とは名ばかりでした。どうにも噛ませ犬のような役割をさせられたようです。

後で人づてに聞いた話では、このブランド大学の応援団団長は、この新聞社の内定を勝ち取ったそうです。結局、新卒の就職活動では学校の偏差値順で内定が決まるのではないかという結論に、私は達しました。

それで、行くあてのなくなった私に母親が、どこからか持ってきたのが、地元の流通業の中小企業の話でした。仕方なく私は、この会社を受けて内定をもらいました。親のコネがなくても、正直な話、この会社なら実力で入れました。しかしながら、心配した親が保険のつもりでコネを使ったそうです。たしか、この会社の役員に十万ほど包んだという話を聞きました。

私の新卒の就職活動は不本意な結末で終わりました。そして、春になり卒業しました。自分としては釈然としないものを抱えたままの就職です。

入社した会社で行うことになったのは、ルートセールスの営業だったのですが、どうにも身が入りませんでした。また得意先に対しても学生気分を引きずっていたのでしょうか。合う、合わないが非常にハッキリしていました。合う得意先では営業成績が出せるけれど、合わない得意先ではさっぱりでした。

営業マンである以上、全ての担当で実績を出さなければならないのですが、当時の私にはなかなか難しかったものです。

仕事に身が入っていない私は、その後、大失敗をして、この新卒で入社した会社を辞めることになります。結局、人間は無理をしてやりたくないことをしても長続きしないのだということを実感させられた出来事でした。親のコネが、例えあったとしても大失敗してしまえば誰も庇い立ては出来ません。厄介払いされる形で辞める前に自分から辞表を提出していれば、傷口はもう少し小さくて済んだのかもしれないと、今にすれば思います。

親の期待には応えられなかったのかもしれませんが、最後は自分の人生です。

普通にいけば親の方が先に死にます。親がいなくなってから、あーすれば良かった。こーすれば良かったと言ってみても遅いのです。

自分の人生、悔いのないように、職業も選ぶべきではないでしょうか。

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